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ラジオ局情報

オールナイトニッポンの歴史
(初期~中期)



1967年にスタートした『オールナイトニッポン』は、これまでラジオで流れることのなかった洋楽のロックンロールやアングラのフォークソングを次々とオンエアすることで若者の心を掴みます。しかし時代の変化とともに、パーソナリティーに個性的なタレントを起用し、「トーク」中心の番組へと生まれ変わりました。

時代のニーズをつかみ「音楽」から「トーク」へ

時代のニーズをつかみ「音楽」から「トーク」へ

オールナイトニッポンのこれまでの放送内容と移り変わりを紹介します。

「若者」に向けた自由な放送

「若者」に向けた自由な放送

ニッポン放送では1959年、深夜の放送休止時間を利用して、DJが一人でトークをしながら音楽をかける深夜放送『オールナイトジョッキー』を放送していました。この低予算番組が予想以上の好評を得たため、1967年に本格的な深夜放送として『オールナイトニッポン』をスタートさせます。番組開始当時にDJを務めたのは、ニッポン放送のアナウンサーやプロデューサーだった糸居五郎さん、斉藤安弘さん、今仁哲夫さん、高岡尞一郎さん、常木建男さん、高崎一郎さんの6人でした。スポンサーを付けず、リスナーからの投稿とDJの個性を生かした番組作りは、これまでのラジオ番組と違った自由な空気を生み出しました。またラジオでかける音楽も、海外のロックミュージックや国内のフォークソングなど、これまでのラジオでは流れることのなかった新鮮なラインアップとなりました。なかでも、ザ・フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』は、オンエアした直後から、問合せの電話が殺到します。それまで全く注目されていなかったレコードが、オンエア後から2ヵ月で180万枚売れるなど、社会現象を引き起こしました。1969年の10月には、ディレクター出身の亀渕昭信さんが土曜日担当のDJに就任します。スタジオの中を走り回ったり、リスナーから届いたハガキを投げて一番遠くまで飛んだ人に一万円をプレゼントしたりと、破天荒なスタイルが話題を呼び、一躍看板DJとなりました。亀渕さんが同じパーソナリティーの斎藤安弘さんとともに「カメ&アンコー」として発表したレコードが20万枚を超えるヒット作となるなど、ラジオに留まらない活躍を見せました。1971年には糸居五郎さんが50時間連続でしゃべり続ける『50時間マラソンDJ』を実施します。スポンサーも順調に増え続け、やがてニッポン放送を代表する看板番組にまで成長しました。

タレント起用で停滞期脱却

こうして一躍人気番組に成長した『オールナイトニッポン』でしたが、他局でも同様の番組が次々と登場したこともあり、70年代に入ると次第に人気が低迷します。そこで1973年7月には、従来の局アナではなく、タレントや歌手をパーソナリティーに起用して人気の回復を図ります。このときパーソナリティーに選ばれたのは、小林克也さん、泉谷しげるさん、あのねのねさん、カルメンさん、岸部シローさんというメンバーでした。しかし、4時間の生放送はパーソナリティーにとっても負担が大きく、多くの人が定着せずに交代してしまうなど、新路線はなかなか軌道に乗りませんでした。このため74年には、番組を2時間ごとに分ける、2部制を導入しました。こうして、タレントパーソナリティーを起用して、2部制で深夜放送を行なう、という現在の『オールナイトニッポン』に通じる枠組みができ上がりました。2部制の導入によってパーソナリティーが不足したため、ニッポン放送では、ミュージシャンやアナウンサーに限らず、芸人や文化人など、多彩なバックグラウンドを持った人間を番組パーソナリティーに起用していきます。こうした状況の下で、70年代の中盤頃から、笑福亭鶴光さんやタモリさん、所ジョージさん、つボイノリオさんなど、強烈な個性を持ったパーソナリティーが頭角を現しはじめます。こうして当初の「音楽中心」から「トーク中心」の番組構成に舵を切ったオールナイトニッポンは、うまく時代の流れに乗り、やがて第2の黄金時代を迎えました。